スタートアップM&A売却に動くと決めた日に、誰の同意が要るか|拒否権とマネジメント・カーブアウト

2026年5月21日、経済産業省が「スタートアップM&Aガイダンス」を公開しました。全115ページ。これまで公的機関がまとまった指針を示したことのなかった領域です。当社はこのガイダンスが示した原則に賛同します。そのうえで、実務の現場で何が起きるかを書き足したいと考えています。
経産省がガイダンスを公開
2026年5月21日、経済産業省が「スタートアップM&Aガイダンス」を公開しました。全115ページ。売り手であるスタートアップと、買い手である大企業それぞれの留意点を、有識者へのヒアリングをもとに体系的にまとめた資料です。
これまで、スタートアップのM&Aについて公的機関がまとまった指針を示したことはありませんでした。中小M&Aガイドラインは事業承継型を前提としており、スタートアップ特有の論点(優先株式、ストックオプション、VCとの関係)は扱っていません。その意味で、このガイダンスは画期的です。
当社は、このガイダンスが示した原則に賛同します。そのうえで、実務の現場で何が起きるかを、ここに書き足したいと思います。
拒否権は、1社ずつ積み上がる
ガイダンスは、資本政策の章で次のように書いています。
M&Aに関する拒否権を単独で持つ投資家がいる場合、交渉がデッドロックになり得るので留意が必要である(p41)
資金調達ラウンドが進むごとに、投資家が個別で持っている拒否権が積み上がってしまう(p46)
正確な指摘です。そして、この「積み上がる」という性質が、実務ではいちばん厄介です。
調達の一回一回では、拒否権の追加は小さな譲歩に見えます。リード投資家が「M&Aは事前承認事項に」と求めてくる。交渉の焦点はバリュエーションとその他の主要条件にあり、拒否権は相対的に小さな論点として処理されます。シリーズAでは1社、Bでは2社、Cでは3社。各ラウンドでは合理的だった判断が、4年後に合算されて効いてきます。
そして、この積み上がりに気づくのは、たいてい売ると決めた後です。
M&Aが止まるのは「反対された」ときではない
ガイダンスは拒否権の課題を「ディールが流れてしまう」と表現しています。しかし実務で起きることは、もう少し違います。
明確に反対されるケースは、実は少ないです。 多いのは、誰も反対しないが、誰も決められない状態です。
- ある投資家は「まだ成長余地がある」と考える
- 別の投資家は「ファンド満期が近いので今の価格で回収したい」と考える
- さらに別の投資家は「前回ラウンドのバリュエーションを下回るので説明がつかない」と考える
ガイダンスのp37は、この3つのパターンを的確に挙げています。問題は、それぞれが拒否権を持っているとき、合意形成に必要な時間が、買い手の意思決定の速度を超えてしまうことです。
買い手には社内の決裁プロセスがあり、予算の期と検討のモメンタムがあります。売り手側の株主調整が3か月かかると聞いた時点で、買い手は別の候補に動きます。流れるのではなく、間に合わない。 これが実際に起きていることです。
今後のガイダンスに追加すべき、もう一つのボトルネック
ここからが、このガイダンスに書かれていないが今後追加してほしい論点です。
日本のスタートアップM&Aの最大のボトルネックは、拒否権そのものではありません。参加型優先株式が普及した状態で、マネジメント・カーブアウトの慣習が存在しないことです。
参加型優先株式がもたらす配分
日本のVC投資では、参加型優先株式が広く使われています。参加型では、優先株主は投資額に相当する優先分配を受け取ったうえで、さらに残余対価を普通株主と按分します。
この構造では、売却価格が一定の水準にとどまると、創業者と経営陣の手取りが著しく小さくなります。 事業として合理的なM&Aであっても、経営陣にとって経済的な意味がほとんど残らない、という事態が起こります。
ガイダンスもこの問題自体は認識しています。
売却価格によっては優先株主にリターンが偏り、経営者や従業員に配分されない場合があり、M&Aが合理的であっても合意形成が難しくなることがある(p41)
しかし対応策として書かれているのは、「契約当事者間で交渉され、決定するよう留意する」までです。すでに参加型で調達してしまった会社が、売却の局面で何をすればよいかは書かれていません。
米国にはMCOの慣習がある
米国では、この問題にマネジメント・カーブアウト(MCO)という仕組みで対応します。売却対価の一部をあらかじめ切り出し、定款どおりの分配とは別に、経営陣へ支払う調整対価です。MCOプールを会社の債務として設計し、分配の最上位に置くのが一般的です。
規模の目安は売却対価の10%前後。小規模な案件ほど比率は高くなり、1億ドル未満の案件では15〜20%程度の例もあります。SRS Acquiomの2023年・2024年の統計では、VCのリターンが3倍以下の案件の約半数にMCO条件が含まれており、3倍を超える案件では見られませんでした。
つまりMCOは、リターンが一定あるものの大きいわけではない案件でこそ使われる仕組みです。経営陣に動く理由を残すための装置と言い換えてもいい。
米国では、MCOは投資時の契約で決めるものではなく、売却時の取締役会決議で採択されるのが通例です。
MCOの設計と日米の運用の違いについては、当社noteの解説記事でより詳しく扱っています。
日本でそれができない理由
ここで、拒否権の話に戻ります。
日本では株主間契約における優先株主の承認事項が広く、承認要件も厳格です。売却時に取締役会決議でMCOを採択する、という米国型のやり方が構造的に取れません。 個別の投資家の同意が必要になり、その交渉は売却プロセスの真っ只中で行うことになります。
拒否権の積み上がりが問題なのは、M&Aが流れるからではありません。M&Aを流さないために、経営陣の取り分を削る方向で決着しやすいことです。
交渉の時間が足りず、買い手の意思決定の速度に間に合わせようとすれば、最も譲歩しやすいのは誰か。株主ではなく、経営陣自身です。
資金調達の段階でできること
ガイダンスはp46で、これから拒否権を設定する場合の対応を示しています。
単独の株主がM&Aに関する拒否権を持たない状態にし、取締役会及び株主の多数(過半数または2/3以上)の同意によりM&Aが実行できるようにすることが有用
これに、当社から2点を付け加えます。
1. 非参加型を検討する。
米国で主流の非参加型優先株式では、優先分配と普通株への転換のどちらかを選ぶ構造になります。売却対価が一定の水準を超えれば、優先株主は自然に普通株への転換を選びます。MCOを後付けする必要が生じにくくなります。 また、株主間契約を変更せずに、取締役会決議でインセンティブを設計できる余地も残ります。
2. MCOの枠組みを、投資契約の段階で合意しておく。
米国と違い日本では売却時の決議だけで採択することが難しいため、先に枠組みだけでも入れておくほうが現実的です。金額や比率を確定させる必要はありません。「売却時に経営陣への調整対価を検討する」という条項と、その決議要件を定めておくだけで、後の交渉の性格が変わります。
優先株式の設計と株主との交渉については、『起業家のためのスタートアップM&A入門』の第四章で詳しく扱っています。
売ると決めてからできること
そうは言っても、すでに参加型で調達し、拒否権も積み上がっている。この状態からできることは何でしょうか。
ガイダンスのp46に、実務的に最も有用な一文があります。
既に設定されている拒否権を調整する交渉において、拒否権だけを論点に設定すると調整が難航することが多い。法人の成熟度合いに合わせ、あるべきガバナンスを全体設計し、拒否権もその中の一論点として位置付けて議論することで、拒否権を調整することの必要性が理解されやすくなる
これは正しい指摘です。当社の実務でも同じです。拒否権を単独の論点にすると、投資家は「権利を手放せ」と言われていると受け取ります。 ガバナンス全体の設計として議論すれば、同じ内容でも合意しやすくなります。
付け加えるなら、順番と時期です。
- 売却プロセスを開始する前に始める。
買い手候補が現れてからでは、個別の利害が具体化してしまい、全体設計の議論になりません。 - リード投資家から始める。
他の投資家は、リードの判断を基準にすることが多いためです。 - MCOを「特権」ではなく「価値創出への対価」として説明する。
VC側にもLPへの説明責任があります。売却機会を逃さず、必要な譲歩で合意したことは、GPとしての責任を果たした根拠になり得ます。
ただし、ここには現実的な限界があります。
買い手が具体的な条件を提示するまで、VC株主が意思決定をするのは困難です。 これは投資家の姿勢の問題ではなく、判断材料が揃っていないという構造の問題です。オファーの水準が見えない段階で「売却に同意するか」を問われても、答えようがありません。
だからプロセス開始前にやるべきなのは、結論を出すことではありません。どういう前提が揃えば、起業家もVCもM&Aを実行すべきと考えるのか。その目線を、あらかじめある程度まで合わせておくことです。
できればリード投資家には、投資委員会の場でも一定の目線を示しておいてもらう。ここまで済んでいるかどうかで、実際にオファーが出てからの合意形成に要する時間が変わります。前述のとおり、M&Aが流れるのは反対されたときではなく、間に合わなかったときです。
なぜ、ガイダンスにこれが書かれていないのか
当社は、このガイダンスを高く評価しています。原則として示されている内容に、異論はありません。
ガイダンスは原則を示す文書であり、個別の交渉の実際までは書けないという性格のものです。公的な指針が「このタイミングで、この順番で、こう説明する」とまで書くことは、そもそも役割の外にあります。
だからこそ、実務を担う側が書き足す必要があると考え、ここに書き足しました。
まとめ
- 拒否権は1社ずつ積み上がり、気づくのは売ると決めたあとである
- M&Aが止まるのは反対されたときではなく、合意形成が買い手の速度に間に合わないときである
- 日本の現場で多く直面するボトルネックは、参加型優先株式が普及した状態で、マネジメント・カーブアウトの慣習が存在しないことにある
- 米国ではMCOは売却時の取締役会決議で採択されるが、日本では承認事項が広く構造的に取れない
- 拒否権の積み上がりが問題なのは、M&Aを流さないために経営陣の取り分を削る方向で決着するベクトルが強くなり過ぎることで落とし所のバランスが崩れるからである
- 調達段階では、非参加型の検討と、MCOの枠組みの事前合意が有効である
- すでに積み上がっている場合は、売却プロセス開始前に、ガバナンス全体の設計としてリード投資家から議論する
当社は、スタートアップのM&Aに特化したFA(ファイナンシャル・アドバイザー)として、株主構成の設計から売却プロセスまでを支援しています。FAと仲介の違いについてはこちらの記事をご覧ください。
よくある質問
Q:投資契約に拒否権があると、M&Aはできなくなりますか。
A:できなくなるわけではありません。実務で問題になるのは、拒否権を持つ投資家が増えることで、合意形成に要する時間が買い手の意思決定の速度を超えてしまうことです。反対されて流れるより、間に合わずに機会を失うケースのほうが多いのが実際です。
Q:拒否権の調整は、いつ始めるべきですか。
A:売却プロセスを開始する前です。買い手候補が現れてからでは個別の利害が具体化し、ガバナンス全体の設計としての議論になりません。経済産業省のガイダンスも、拒否権だけを論点にすると調整が難航すると指摘しています。
Q:マネジメント・カーブアウトとは何ですか。
A:売却対価の一部をあらかじめ切り出し、定款どおりの分配とは別に、経営陣へ支払う調整対価です。米国では売却対価の10%前後が目安とされ、売却時の取締役会決議で採択されるのが通例です。日本では株主間契約における優先株主の承認事項が広いため、同じやり方は構造的に取りにくく、投資契約の段階で枠組みを合意しておくほうが現実的です。
Q:参加型と非参加型の優先株式では、何が違いますか。
A:参加型では、優先株主は優先分配を受け取ったうえで、さらに残余対価を普通株主と按分します。非参加型では、優先分配と普通株への転換のどちらかを選びます。非参加型では売却対価が一定水準を超えると自然に普通株への転換が選ばれるため、経営陣への配分を後から調整する必要が生じにくくなります。
本記事は、経済産業省「スタートアップM&Aガイダンス」(2026年5月21日公表)の記述を引用しつつ、当社の実務上の見解を加えたものです。引用部分と当社の意見は区別して記載しています。記載のうち意見にわたる部分は当社の見解であり、特定の案件についての記述ではありません。
出所
- 経済産業省「スタートアップM&Aガイダンス ― スタートアップ・エコシステムの成長・発展並びに新産業の創出に向けて ―」2026年5月21日公表(PDF)
- SRS Acquiom の2023年・2024年統計(当社note記事に記載)
- 当社note「スタートアップM&A売却における日本の『参加型』優先株式の問題点とマネジメント・カーブアウト」2026年5月13日