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スタートアップM&Aのマルチプル実績|売却価格最大化の観点とEV/EBITDA中央値15.0倍の内訳

作成者: 松井 克成|2026/11/02

中小企業のM&Aで譲渡額を聞かれたとき、多くの場面で返ってくるのは「時価純資産に営業利益の3年分から5年分を足したあたり」という答えです。年買法と呼ばれる実務慣行で、計算が容易なこともあり、事業承継の現場では事実上の標準になっています。

しかしこの物差しは、成長企業には当たりません。

当社が支援した最近のM&A31件(成約累計410億円、2026年10月末時点)の実績を集計すると、直前期のEV/EBITDA倍率は中央値で15.0倍でした。年買法が想定する水準とは、明らかに別の分布にあります。

なぜこうなるのか。そして、この数字をどう読むべきか。自社の実績値を開示したうえで書きます。

 

事業承継M&Aと成長企業M&Aは、別の相場で動いている

同じ「中小企業のM&A」という言葉で括られていますが、買い手が何を買っているかが全く異なります。

事業承継M&Aで買い手が買うのは、すでに回っている事業です。安定した利益、既存の顧客基盤、熟練した従業員。価値の源泉は過去の実績の側にあり、将来はその延長線上にあると見なされます。だから過去の利益を何年分積むか、という発想が成り立ちます。

一方、スタートアップやソリッドベンチャーなど成長企業のM&Aで買い手が買うのは、成長ストーリーと成長事業です。見ているのは過去の利益ではなく、すでに伸び始めている事業の勢いです。急成長を生んでいる顧客獲得の仕組みを一から作れば3年かかる。その中核となる技術と、それを開発できるチームを自社で育てれば5年かかる。買収すれば、その地点に今日立てる。買い手が支払っているのは、短縮された年数の対価です。これについては、買い手が実際に何を見て判断しているかを、「スタートアップ買収の判断基準ー買い手は何を見て、何を懸念しているか」に整理しました。

そして、この違いは、算定手法の選択の違いではありません。M&A取引の性質そのものが違います。同じ物差しで測ろうとすること自体に無理があります。

中小M&Aの譲渡額算定については、中小企業庁が中小M&Aガイドラインの参考資料で整理しています。簿価純資産法、時価純資産法、類似会社比較法といった手法が並記されていますが、どの手法を採るかは、対象企業がどちらの性質を持つかで決まります。

 

年買法が前提にしているのは、成長が止まった企業である

年買法は「時価純資産+営業利益×n年」で譲渡額を出します。nは実務上3年から5年が多いとされます。

この式には、暗黙の前提が2つ入っています。

1つは、営業利益が将来も同水準で続くこと。だからこそ「n年分」という掛け算が成立します。利益が毎年1.5倍になる企業に対して、直近の営業利益の3年分と言われても売り手としては騙されているように感じるはずです。成長企業にとって払われるべき額は、直近の利益ではなく将来の利益から逆算されるべきだからです。

もう1つは、純資産に意味があること。製造業や設備を持つ事業では、時価純資産は再調達コストの近似になります。しかしソフトウェアやサービスを提供する成長企業では、価値のほとんどが貸借対照表に載っていません。人材、顧客との関係、プロダクトの開発蓄積。純資産を起点にすると、評価の土台そのものが抜け落ちます。

年買法が悪い手法だというわけではありません。対象が合っていないだけです。成長が止まり、資産が実体を持つ事業に対しては、簡便で実務的な方法として機能します。

 

FiPの実績では、直前期EV/EBITDAの中央値は15.0倍だった

当社が支援したM&A案件の実績値を公開します。いずれも中央値で、集計できた件数を併記しています。

指標 中央値 集計件数
直前期 EV/EBITDA倍率 15.0倍 19件
進行期 EV/EBITDA倍率 9.6倍 22件
直前期 PSR 2.0倍 26件
進行期 PSR 1.5倍 26件
直前期 PER 19.0倍 16件
進行期 PER 14.7倍 20件

EV(企業価値)は株式価値に有利子負債を加えたもの、EBITDAは調整前(会計上)の数値です。赤字の期は集計から除いています。

母数は最近の19件から26件です。この領域の実データがほとんど公開されていないことは、年買法が当てはまらない成長企業の売り手にとって重要な情報が不足しているということであり、弊社としての業界に対する課題意識です。

 

直前期と進行期の差が、成長の対価である

上の表で注目していただきたいのは、直前期と進行期で倍率が大きく動いていることです。

EV/EBITDA倍率は直前期15.0倍に対して進行期9.6倍。同じ取引価格を、どの期の利益で割るかだけの違いです。分母である進行期のEBITDAが直前期より大きいから、倍率は下がります。

これが成長企業のM&Aの特徴です。買い手は直前期の実績ではなく、進行期以降の利益を見て値付けをしています。直前期の倍率が高く見えるのは、買い手がすでに成長を織り込んでいることの裏返しです。

逆に言えば、直前期と進行期の倍率がほとんど変わらない取引は、成長を評価されていません。売主の立場でこの差が開いていない提示を受けたときは、買い手が事業計画を信用していないか、そもそも成長を前提にしていないかのどちらかだと考えたほうが実態に近いと思います。

PSR(株価売上高倍率)が直前期2.0倍・進行期1.5倍、PER(株価収益率)が19.0倍・14.7倍と、いずれも同じ方向に動いているのも同じ理由です。

 

赤字でも2桁億円以上で売れることはある。その案件はこの表に出てこない

なお、ここまでの数値には、赤字企業の売却が一切含まれていません。

当社が過去支援したM&A31件のうち8件は、直前期または進行期に赤字を計上しています。利益がマイナスであれば、EV/EBITDA倍率もPERも計算できません。分母が負の数になった倍率に意味はないため、集計から外しています。

しかし、外れているのは、安く売れた案件ではありません。株式価値10億円以上で成約した13件のうち、3件が赤字案件です。

赤字でも2桁億円の評価はつきます。むしろ、この表に出てこない案件のほうが、成長企業M&Aの本質をよく表しています。買い手が見ているのは、現時点の利益ではないからです。

実態として、利益が出ていないことを理由に売却を先送りする経営者は一定数います。しかし「黒字化してから売る」という判断が、常に正しいわけではありません。赤字が先行投資の結果であるなら、買い手がその投資の価値を評価する限り、黒字化を待つことがマイナスになることもあります。例えば、黒字化を待っている間に競合が同じ領域を押さえてしまえば、むしろ評価は下がってしまいます。

つまり、この記事に掲載している数値を「自社は赤字だから当てはまらない」と読むのは早計です。倍率が算出できないというだけで、取引が成立しないという意味ではありません。

ただ、赤字である、というだけで様々な買い手に価格を叩かれることは多いため、成長率が突出して高いか、バイオやディープテックなどのような場合以外は、弊社としては原則、お薦めしていません。せっかくご相談いただいてもご支援をお断りすることが多く、かなり慎重に判断させていただいております。

 

規模が大きい案件ほど、倍率は上がる

加えて、株式価値10億円以上で成約した13件だけを取り出すと、倍率は全体を上回ります。

指標 全体の中央値 株式価値10億円以上の中央値
直前期 EV/EBITDA倍率 15.0倍 16.6倍
直前期 PSR 2.0倍 3.6倍
直前期 PER 19.0倍 24.2倍

PSRの差が大きい(2.0倍から3.6倍)のは、規模の大きい案件ほど売上の質が評価されているためです。同じ売上でも、継続性のある収益か、一度きりの取引かで買い手の見方は変わります。規模が出ている企業は前者の比率が高い。

ただし「規模を作れば倍率が上がる」と読むのは逆です。倍率が高くつくだけの事業構造を持っている企業が、結果として規模も大きくなっているという関係の上で成り立っていることなのです。

 

倍率が高いのは、売主側に立っているからでもある

この数字には構造的な理由があります。そこを隠すつもりはありません。

当社のM&A成約31件のうち、22件(71%)が売主側の支援です。倍率を算出できた26件に限ると、20件(77%)が売主側でした。

売主側のファイナンシャル・アドバイザー(FA)と、M&A仲介では、立場が違います。仲介は売主と買い手の双方から手数料を受け取り、取引の成立そのものを目的とします。売主側FAは売主とだけ契約し、売主の利益を最大化することを目的とします。この違いは成立価格に出ます。両者の役割の違いについてはFAとM&A仲介の違いに書きました。

つまり当社の倍率が高く出るのは、2つの選択の結果です。対象を成長企業に絞っていること。そして売主側にしか立たないこと。

構造的に倍率が高くなる位置を選んでいる、という指摘はそのとおりです。ただ、そのポジションを取れば自動的に高くなるわけでもありません。買い手候補をどこまで広げられるか、競争環境を作れるか、交渉をどこまで引っ張れるか。そこは実務の差です。

 

平均値ではなく、中央値を見る

この記事で意図的に平均値を出していません。

マルチプルの平均値は、少数の極端な案件に簡単に引きずられます。進行期の利益が極めて小さい企業が1件混ざるだけで、分母が小さくなり倍率は数百倍に跳ね上がる。その1件が平均を押し上げ、結果、実態とかけ離れた数字が出ます。

当社の実績でも、進行期EV/EBITDA倍率の平均値は中央値の5倍以上になります。これを「当社実績」として掲げれば派手に見えますが、相場感としては何の役にも立ちません。

他社の実績値を見るときも同じです。平均値しか書かれていない資料は、母数と分布を確認することを強くお勧めします。中央値と件数が併記されているかどうかは、その資料が誠実かどうかの簡単な判定基準になります。

 

それでも、倍率が先にあるわけではない

ここまで倍率の話を書いてきましたが、売却の実務で倍率から入ることはありません。

倍率は結果です。買い手が「この事業にいくら払うか」を決め、取引が成立したあとで、割り算をして出てくる数字にすぎません。交渉の場で「同業はEV/EBITDA15倍だからうちも15倍」という主張が通ることは、まずありません。

買い手が見ているのは、自社の事業にとって成長ストーリーとして適正価格の範囲の中での上の方の価格であっても買いたいか、です。その見積もりが高くなるような材料を、売却プロセスの前にどれだけ積めているか。そして、その見積もりを高く持つ買い手を何社テーブルに乗せられるか。倍率はその結果として出てくるものです。

準備の順序については別稿に書きました。投資契約の拒否権や株主間の合意形成は、売ると決めてから動かすには重すぎる論点です(売ると決めた日に、誰の同意が要るか)。また、資金調達の段階で何を決めておくべきかは書籍の第四章で扱っています。

 

よくある質問

Q:成長企業のM&Aで、年買法は使えますか。

A:適していません。年買法は「時価純資産+営業利益×3年から5年」で譲渡額を出す実務慣行で、営業利益が将来も同水準で続くことと、純資産が事業価値の近似になることを前提にしています。利益が毎期大きく伸びている企業や、価値の大半が人材・顧客基盤・開発蓄積といった貸借対照表に載らない資産にある企業では、この2つの前提がどちらも成り立ちません。成長企業ではEV/EBITDA倍率法やPSRなど、将来の収益力を基準とする手法が用いられます。

Q:スタートアップM&AのEV/EBITDA倍率は、どのくらいですか。

A:当社が最近支援したM&A案件の実績では、直前期のEV/EBITDA倍率は中央値15.0倍(19件)、進行期では中央値9.6倍(22件)でした。株式価値10億円以上で成約した13件に限ると、直前期の中央値は16.6倍です。直前期より進行期の倍率が低いのは、買い手が進行期以降の利益を見て値付けしているためで、この差が成長を織り込んだ分にあたります。

Q:なぜ売主側FAだと、譲渡価格が高くなるのですか。

A:立場が違うためです。M&A仲介は売主と買い手の双方から手数料を受け取るため中立かのように思われがちですが、中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」第2章Ⅱ5は、仲介者が一方当事者(特に、リピーターになり得る譲り受け側)の利益を優先して取引をまとめるように動く動機があるという構造的な利益相反のリスクを明記しています。同ガイドラインは、リピーターとなる依頼者を優遇して不当に低額な譲渡価額へ誘導する行為を、仲介者の禁止行為として仲介契約書に定めることを求めています。そうした構造において、売却価格が取引成立に近づくにつれて下がっても、買い手からより多くの手数料を受け取ることで調整可能であり、また、取引を成立させること自体が目的になりやすい。売主側のFAは売主とだけ契約し、売却価格を引き上げる以外の方法で手数料を大きくする方法がないため、買い手候補を広く当たって競争環境を作り、条件交渉を合理的に進めるのが必然となる構造です。当社のM&A成約31件のうち22件(71%)が売主側の支援です。

Q:赤字のスタートアップでも、M&Aで売却できますか。

A:できます。ただし、条件があります。当社が支援したM&A31件のうち8件は、直前期または進行期に赤字を計上しています。株式価値10億円以上で成約した13件に限っても、3件が赤字案件です。赤字の場合はEV/EBITDA倍率やPERが算出できないため当社の統計値からは除外していますが、それは取引が成立しないという意味ではありません。一方で、赤字であるというだけで様々な買い手に価格を叩かれることも多く、成長率が突出して高いか、バイオやディープテックなどの場合を除いては、弊社として原則お薦めしていません。したがって、ご相談をいただいてもご支援をお断りすることが多く、かなり慎重に判断させていただいております。

Q:マルチプルは平均値と中央値の、どちらを見るべきですか。

A:中央値です。マルチプルの平均値は、分母となる利益が極めて小さい案件が少数混ざるだけで大きく上振れします。当社の実績でも、進行期EV/EBITDA倍率の平均値は中央値の5倍以上になります。相場感を掴む目的であれば中央値を見るべきで、平均値しか記載のない資料は母数と分布を確認するまで判断を保留したほうが安全です。

 

まとめ

  • 事業承継M&Aと成長企業M&Aでは、買い手が買っているものが違う。前者は回っている事業、後者は短縮できる時間。だから相場も別に成立する
  • 年買法は、利益が横ばいで資産が実体を持つ事業のための手法である。成長企業に当てると前提が2つとも崩れる
  • 当社実績では直前期EV/EBITDAの中央値は15.0倍(19件)。進行期では9.6倍まで下がり、この差が成長を織り込んだ分にあたる
  • 倍率が高いのは、成長企業に絞り、売主側にしか立たないという選択の結果でもある。構造要因と実務の差は分けて見るべき
  • 赤字でも2桁億円で成約している案件が複数ある。倍率が算出できないため統計から外れているだけ。ただし赤字というだけで価格を叩かれやすく、成長率が突出して高い場合等を除き当社は原則お薦めしていない
  • 倍率は結果であって、交渉の出発点ではない

注: 数値はいずれも株式会社ファイナンス・プロデュースが支援したM&A案件の実績(2026年10月末時点)。EV=株式価値+有利子負債、EBITDAは調整前(会計上)。赤字の期は集計対象から除外。

本稿は、株式会社ファイナンス・プロデュース代表取締役・共同創業者の松井克成が執筆しました。成長企業に特化したセルサイドFAとして、M&A31件(うち22件が売主側)を含む累計74件・853億円の成約に関与しています。